
はじめに
ついに見てきたぞ!『超かぐや姫!』の映画館上映!
いや本当に見てしまった。最初は映画館まで見に行く気はあんまりなかったのに。自分のハマり具合に驚きである。
『超かぐや姫!』は、最初、NETFLIXでのみ配信されていたアニメ映画だ。でもあんまり人気なもんだから、あとから1週間限定で映画館での公開が決定し、さらに追加の延長公開が決まったという、よくわからないけどたぶんめっちゃすごいことをしている作品だ。
キャラクター原案にへちまさんが携わっているということで、学園アイドルマスターPのぼくもかなり楽しみにしていたし、配信開始日にしっかり見てしっかりハマった。
決して短くはない作品なのにすでに3回見てしまったし、そのたびにぼろぼろ泣いている。劇場公開が決まった当初は、さすがにサブスクで見れるものを映画館で見るのもな、なんて思っていたはずなんだけどなぁ……。ままならないもんである。
しっかり映画館でも泣いてしまった。しかもだいぶ序盤から。見たひとならわかってくれるよな?!
ここまでハマっている映画のだから、さすがになんらかの形で残しておくことにした。
ぼくが映画を見るときにつけているメモも、『超かぐや姫!』だけでかなり溜まってきたし。
「映画」としての『超かぐや姫!』
◯言葉はなくても伝わるもの
「言わない」「伝えない」「でも伝わる」映画だ。
セリフのひとつ、カット割りのひとつとってもきちんと意味があると感じたし、それを感じさせない自然さがあった。
なにも知らなくても十分楽しめるし、一度二度と繰り返して見るたびに、「あぁ、あのセリフはこんな意味があったんだ」「この場面はこんな意図があったんだ」と気付かされる。
正直、「映画」としての出来は百点満点ではない。たぶん80点くらい。良作だとは思うけど、世紀の大傑作ってほどではない。
「映画」として満点ではないというのにはもちろん理由があって、正直冗長だな、テンポが悪いなと感じてしまう部分は多い。ここは割愛して、ここはもっと見せて、っていう部分が少し甘く感じてしまう。
めちゃ簡単にいうと、起承転結を等分割してそこに無理やり話を押し込んでいるような感じ。
これは30分アニメとかが主流の日本のアニメ映画には良くあることだと思っている。
具体的にいうと、正直黒鬼とのマッチあんなに長く細かくやる必要なかったよね?!
たしかに彩葉が一歩を踏み出すうえで必要なシーンだったとは思うけれど、ヤチヨの可愛いところが見れたりして嬉しかったけど、でも長いなぁ!!!
それよか、かぐやがヤチヨカップのために色んな活動してファン増やしてくとこ見たかったよ。
「私は、わたしのことが好き。」とともに流れるかぐやのライバー活動とか、芦花や真実と遊んでいるシーンとか、もっと詳しく見たかったよ!!!
だってさぁ、みんなも思ったちょっとはでしょ?!
rayの公式mv最高!!
なんだけど、それ本編でも見せて欲しかったなぁって!!
いや、あれは本編見た後で見るから沁みるし、全然今の形でいいんですけどね?!
でもやっぱり、単体の「映画」としてみたときにはもったいないなー、と思うところがあった。
じゃあだめなのかって、映画としてテンポ悪いなら最悪じゃんっていうかというと、そんなことはまったくない。
さっきも少し触れたけど『超かぐや姫!』には美学がある。
それは「言わないこと」だとぼくは思った。
例えばセリフ。キャラクターたちは意識的にせよ無意識的にせよ、直接的に言葉を言わない。
例えば彩葉のお母さん。
「あんたにはまだわからん」というセリフは、映画の中でも象徴的なセリフのひとつだと思う。
映像からお父さんの葬儀の場での発言で、お父さんの死に関する彩葉からの何らかの問いかけに対する答えだと思われる。
おとなになって葬儀に出たことのある人ならわかると思うんだけど、長年親しんだ人の死はつらい。
それをまだ子どもの彩葉には知ってほしくない、お父さんとの思い出をつらいものにしてほしくない、というセリフには表現されていない優しさなんじゃないだろうか。
例えばヤチヨ。
「あれは届いたから、お役目終了」というセリフは、最初見ていたときはなんのこっちゃといった感じなんだけど、全編見通したならわかる。永く、孤独で、暗い道のりでも、彩葉にもらった「Reply」がかぐやの足元を照らしていた。
本当はきっと、彩葉を見つけたそのときから会いに行きたくてたまらなかっただろうことは、のちのヤチヨの回想で彩葉のことを見つけた瞬間が強く思い出されていることからもわかる。
でも言わない。今の自分(ヤチヨ)は、彩葉の知っているかぐやからは大きく変質しているから。
というかヤチヨに関して言えば、作中でも彩葉に言わないことを明確に選んでいる。
彩葉が帰ったあとで「いつも見てくれてありがとうね」といったり。
8000年間のあいだにあった楽しいことだけを話して、彩葉に余計な気を使わせないようにしている。まあ彩葉にあっさり看破されるんですけど。
そして彩葉。
「言いたくなかった」というセリフは、自分のお母さんとの確執から出たセリフで、だから彩葉はかぐやにきちんと話をした。
ように見えるけど、その実、彩葉は結構言葉を言わない。
コラボライブが終わったあと、かぐやの髪を乾かしながら「ねぇ……」と声をかける。でも聞かない。
夏祭りの描写から、この時点でかぐやが月に帰るだろうことは察していたのに。
かぐやが月に帰ったあと、ふじゅ~ペイの入金を確認して「こんな大金使えるかよ」。だれに聞かれる言葉でもないのに、「寂しい」「いかないで欲しかった」とは言わない。
そして、結構な頻度で沈黙を選ぶ。勉強にバイトにライバー活動に、いろんなものを抱えているのに、彩葉はそれを表に出さない。助けてと言わない。
こういう言葉足らずな部分、お母さんにそっくりだと思うよ。
まあそれも、芦花や真実にはバレていたし、かぐやにもバレていたんだけどね!
この映画は全編を通して言わないことを大切にしている。
会話の中で、言いかけた言葉を飲み込むことも多い。
お兄ちゃんもそう、芦花と真実もそう。乃依や雷もそう。
みんな、より大切なもののために言葉を言わない。
「瞬間、シンフォニー」は、月にいたころのかぐやからは自由に見えた地球人が、その実みんな複雑なものを抱え込んで、悩んで、それでも輝こうとしてることを知って、そしてかぐや自身も成長していることを表した曲だとぼくは受け取った。
2番の歌詞知ってる?
「ちょっと大人ぶってみたい
ちょっとだけ分かったみたい
飲み込んだ言葉の苦さ
背中を隠したあの月のように
いつも人は皆 自分の気持ちを隠して輝いて見せた」
だよ?泣いちゃうだろ!!!!
「みんな抑えてもいるんだよね、自分の気持ち。もっと大事なもののために」というかぐやの言葉は、この作品を象徴しているとぼくは思う。
◯思いを届けるパンケーキ
作中には様々な小道具が登場するけれど、ぼくが一番好きな物がある。パンケーキだ。
「超かぐや姫!」のパンケーキはヤバい。若者が食べる映えるもの以上の役割を持っている。
例えば芦花と真実に献上されたパンケーキ。
「彩葉ノートで赤点回避記念~」という名目で渡されているけど、ぼくにはわかる。
あれは勉強やバイトで見るからに疲労困憊の彩葉を労る気持ちで、おごりという名目で彩葉を休ませようとしている。友達への優しさと愛情のパンケーキだ。
ヤチヨの「パンケーキ食べたいなぁ」というセリフと、パンケーキの形をしたツクヨミ。
きっとかぐやにとってパンケーキとは、「Reply」と同様、自分の心を照らす大切な思い出のひとつだったんだろう。
ヤチヨの言葉にするパンケーキ、軽そうな言い方の割にはかなり重たい。パンケーキか?パンケーキだわ。でもそうなるのも理解できる。感謝と憧れのパンケーキ。
そしてかぐや。
かぐやにとってパンケーキは、彩葉がはじめて手作りしてくれた食べ物だ。
食べた直後は「クソまじぃ……」なんていっているけど、のちに彩葉が熱を出したときのかぐやを思い出してほしい。
「いっぱいふかふか置いといたから、いっぱいふかふかしてね」
かぐやの中で、ふかふかふわふわしてるものは、優しさや愛情が形を持ったものとして認識されている事がわかる。パンケーキじゃん?かぐやにとってパンケーキは愛そのものだ。
みんながいろんな形で彩葉にパンケーキを送る。
ふわふわのパンケーキは、素直ではない彩葉に届けられる数少ない愛の言葉だったんじゃないかな、とぼくは思う。
◯対比の美しさ
美しい映画とは得てして対比表現が芸術的なものなのだけど、「超かぐや姫!」もその例にもれない。
全部あげるときりがないので、ぼくのお気に入りの対比をこっそり書いておこうと思う。
・かぐやの隠れる戸棚
かぐやが月に帰った直後、ひとりツクヨミからログアウトした彩葉がキッチンの戸棚を片っ端から開けていく。なんでか考えていたんだけど、一番はじめ、最初の三連休明けでかぐやがいなくなったと思ったらキッチンの戸棚に隠れていたことがあった。
無意識かもしれないけど、帰っていなくなったんじゃなくてただ隠れているだけ、かぐやはいなくなっていない、ということを期待している彩葉の気持ちが行動に現れている。
・対象的な二人
映画といえばメイン主人公2人の対比は鉄板だけど、彩葉とかぐや(=ヤチヨ)の対比はそうとは感じさせない美しさがある。
自由に憧れ、自由奔放に行動しているように見えても、その実「運命ならば」と流れには逆らわないかぐやとヤチヨに対して、流れに従順なように見えて、本当に譲れないことのためなら運命すらも乗り越えようとする彩葉。
お互いがお互いを引っ張り合う美しい関係性だ……。
「コンテンツ」としての『超かぐや姫!』
「映画としては80点かなぁ~」とか言いながらめっちゃ書いてしまった……。
じゃあ「映画」じゃないならなんなのよ、というはなしなんだけど、それはずばり「コンテンツ」としての観点になる。
ぼくは本編とコンテンツ全体を別で考えるようにしている。
例えば仮面ライダーとかね。最近の仮面ライダーはスピンオフがたくさん出ているけど、本編単体とスピンオフを含めた全体はわけて評価をするべきだ、という考えだ。
で、『超かぐや姫!』は「コンテンツ」として8000億点くらいある!と思っている。「ray」のmvなんかはその最たるものなんだけど、他にも色んなものがある。
公開前にはyoutubeにボーカロイドのカバーをアップしたり、ショート動画とかで本当に配信活動者みたいなものをアップしたり。
全部、本編を観た後だと意味があるっていう事がわかって、キャラクターの解像度を上げるのに一役買っている。し、YouTubeに上がっているということは、より気軽に見た人の記憶にアクセスできる。だから見終わった後の余熱みたいなものが、他の映画よりもずっと長く続く。
普通の映画だと、見終わったあとは浸りたくても主題歌聴くくらいしかないからね。それに、共有も簡単だから、見終わった後の熱の籠った状態でまだ見てない人にも勧めやすい。
オタクなんて「早見沙織がボカロ曲歌ってるよ!ライブするよ!」だけでめちゃ簡単に釣れるんだから。
「rayも歌うけど、これは本編見たら8000倍楽しめるから先に本編見て!」で大漁よ。
それとやっぱり、ターゲッティングも上手いと思う。
感覚としては「20代〜30代のオタク」を確実にブッ刺しにきているし、それ以外には刺さらなくても良い、と割り切って作っているんじゃないかな、と思う。
選曲からしてそう。
かつてあったニコニコ動画全盛の時代。あの時代を生きて、普段は教室の隅で寝たふりしたりノートに絵を描いたりして、オタクが集まったカラオケでだけボカロの曲を入れたあの時代。オタクじゃないカラオケに行く時はそれこそBUMP OF CHICKENとかRADWIMPSでなんとか凌いだあの時代。
あの時代のオタクの理想の世界みたいな場所だよね、ツクヨミ。何を作っても貶されなくて、好きなものを堂々と好きって言って良くて。
VRっていうのも、昔は夢みたいだった仮想現実が、今は少しずつ現実味を帯びてきていて。
.hackとか攻殻機動隊とか、劇場版コナン、厳密にはもうちょっと後だけどソードアート・オンラインとかで仮想現実というものに理解があって、アメーバピグとかVRChatとかでそこでやりとりするっていう文化に馴染みがある。
そんな層を明確にターゲットに据えてる感じがすごいする。ついでに言えばこの世代は、ちょうど社会人になって経済的に余裕ができて、コンテンツにお金を払うことに躊躇いがない世代でもあるしね。
うちの母親がCMみて「これ見てみようかなぁ」なんて言っていたけど、見てもたぶんぼくほどは楽しめないと思う。だって母さん陽キャだし。オタクでもないし。ボーカロイド知らないし。ぼくのいとこがVtuberの事務所に就職したときに「Vtuber?ってなに?」っていってたから説明したけど、いまいちピンときてなかったし。
逆に、ぼく以上にニコニコ動画とVtuberに救われてきたぼくの友達の熱狂具合はすごかった。
今もすごい。寝ても覚めても超かぐや姫のことを考えているらしい。ぼくが勧めといてなんだけど、ぼくは嵐とマイケル・ジャクソンのことを考えてるよ…。
作品の解釈も、あとから突然供給された「ray」のMVとか、劇中歌の2番以降の歌詞から生み出されることが多い。
だから、「コンテンツ」としての超かぐや姫は8000億点。
改めて思うのは、超かぐや姫を楽しめる時代に生まれて、好きだと思える自分になれていてよかったな、という事。
平成オタクコンテンツを摂取していて、なおかつ仮想現実がまだ現実でないこの時代に生きていて、超かぐや姫というコンテンツが生み出した大波に乗れる事がとても嬉しい。
この体験はたぶん、前の世代にも後の世代にもきっとできないことだから。
おわりに
『超かぐや姫!』はかつて「現実はくそだ、インターネットが最高だ」と思っていたオタクたちをターゲットにしていると思っているけど、それと同時に「現実もそんなに悪くないよ」というメッセージも込められていると思う。どちらが上でどちらが下か、どっちが勝ちでどっちが負けか、なんて優劣をつけるものではなくて、「どちらも大事なお前の居場所」。
いろいろなぶぶんでそう感じたけれど、特にあげるとするのならばやっぱり最後。
メリーバッドエンドを乗り越えた先で、8000年を超えた先でかぐや(=ヤチヨ)が機械の身体を手に入れる。
じゃあこれで終わり!と現実に帰っていくわけではなくで、かぐやの復活ライブをツクヨミと現実で同時に行う。だから、どっちが上とかじゃない。どっちも大事なんだよ。言葉にはしないメッセージがここにもある。
蛇足
……。
書きすぎだよね、ぼくこれ2000字程度でまとめるつもりだったのに。
でも書いておかないといつか忘れるたときが嫌だなぁっておもったら書いてしまった。
忘れそうだから、本文には書かなかったぼくの「解釈」を書いておこうと思う。
・富士山に埋めるタケノコ
「ray」のMVで、彩葉とかぐやはかぐやの乗ってきたタケノコを富士山の頂上に埋めに行く。
タケノコは単なるかぐやの乗り物ではなく、かぐやの精神データ(魂)を保存し、FUSHI(不死)を生成する役割を担っている。
原典の「竹取物語」では最後、帝はかぐや姫から受け取った不死の薬をもっとも天に近い山(もっとも高い山)で燃やし、不死になることは選ばなかった。
つまり、タケノコを富士山に埋めることは、不死性を捨てることを表しているんじゃないだろうか。
今後はかぐや(=ヤチヨ)は彩葉と同じ時を生きて、そして死ぬんだ、死ぬ事を選べたんだ、と解釈できる。お互い同じ8100年分の記憶をもって、同じ時間を生きて、同じように死ねる。純愛だよ。


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